川崎実遭難事故報告書
事故発生年月日 2010/08/14
事故発生場所 白川又(しらこまた)川本流ゴルジュ長淵上部(溯行図参照)
報告者 和田謙一、川崎振一郎
(以下文中全て敬称略)
1. 2010年8月4日の集会にて川崎が記載した例会山行
1-1 山行計画(その1)
日程 8/7~10
山域 大峰 白川又川支流 中ノ又谷~上ノ谷・本谷~口ノ剣谷(下降)~奥剣又谷(溯行)
メンバー 川崎(単独)
(W)( 以下(W)は和田コメント)口ノ剣谷は口剣又(くちつるぎまた)谷の誤記と思われる。上記山行は予定通り行動し弥山~狼平経由で天川に下山している。天河大弁財天社の写真が残っていた。この時8/16にテントが見つかった場所を歩いて通っている。この山行終了後自宅で2日間(8/11~12)休養している。
1-2 山行計画(その2)
日程 8/13~15
山域 大峰 白川又川中ノ又谷出合~本流下降~大黒構(おんぐろこ)谷(溯行)
メンバー 川崎(単独)
(W)以下8/4の集会時に川崎が加藤(文)と話した内容
目的は写真撮影
8/13 バス停から林道を歩く。
8/14 林道終点まで歩いてから中の又谷出合に至り、本流を大黒構谷出合まで下降。大黒構谷を溯行してテントに戻る。
8/15 林道を歩いて午後のバスに間に合うように白川バス停に帰る。
(W)時刻表では9:11か15:10の2本しかない。
家族には「午前の便には間に合わないと思う」と言っていたそうである。
2.装備及び服装
2.1テントに残した装備
貴重品、アプローチ用ザック、シュラフ、合羽、食料(アルファ米の炊き込みご飯2食分、ブドウ糖)はテントに残していた。コンロ、食器類は家に置いたままだった。
2.2遭難時の装備
所持品はカメラ(デジタル一眼1台+交換レンズ広角ズーム1本、銀塩一眼1台、デジタルビデオカメラ1台、何れもタッパー内に収納)、三脚、未使用ボルト、ジャンピングセット、行動食(未開封のカロリーメイト、干しブドウが残っていた)、ライター、アーミーナイフ、携帯電話をデイパックに入れて所持。これ以上デイパックに物が入る余地なし。ロープ7mm×20m(現場から回収した遺品にロープはなかったので流失したと思われる)。シュリンゲ、ハンマーはハーネスに着けていたようだ。
2.3遭難時の服装
服装はヘルメット、ハーネス、簡易ライフジャケット、赤っぽいTシャツ、ジャージのトレパン、海水パンツ、渓流タビ(モンベル)、靴下は5本指ソックス。脚絆(スパッツ)は無し。
(W) 彼と盆休みに黒部の北又谷に行ったときも、奥に雪渓があるため水温は低かったが、上記スタイルで彼は平気で泳いでいた。私は下半身に3.5mmのネオプレン鮎タイツを穿いた。彼は私より桁違いに低水温に強い。事故時の服装は彼の普段通りの沢登りスタイルだった。
3. 実際の行動(推定含む)
(距離はおよその水平距離/時間 ?付は推定時間)
3.1 8/13の行動
現地フジノトコの天候
(フジノトコで最後に川崎を目撃した渓游会上仲コメント、以下(U)と略)夕方から午後7時半位まで夕立あり、その日は水量が結構増えた。
6:30頃自宅発
JR茨木より大和八木(時刻表では7:19発~8:51着)
奈良交通バス 上北山村白川バス停着(時刻表では8:57発~11:56着)
白川又川林道を歩いてテン場まで(9km/3h?)
大黒構谷と塩の谷合流点付近の林道脇でテント泊
(テントは8/16朝に捜索隊により発見される)
3.2 8/14の行動
現地フジノトコの天候
(U)朝には水量は減ったが、9:00過ぎから間もなく天気がくずれ、強い雨が降ったり止んだり。
(渓游会佐々木コメント)スコールのような雨だった。
6:00?必要な装備のみでテン場発
白川又川林道を歩き終点から中の又谷出合
8:30?中の又谷出合(テントから約5km/2.5h?)
本流を下降
9:05?フジノトコ(飯場跡)付近の川原
(中ノ又谷出合から1.3km/0.5h?)
9時過ぎ、渓游会の佐々木と上仲に出会い、会話を交わす。
(U)川崎は忍者の如く軽快に下って来た。淵を泳ぎ下ってきたため全身濡れていた。7mm20mくらいのロープをデイパックの雨蓋に挟んでいた。
話した内容はライフジャケットについての質問に対する説明「空気を抜いて入れなおす実演をした」、当日の行動予定、本人も今日はいつもより水量が多いと話す。最後に「この谷は、本当にいい谷ですね」と話した言葉が印象に残った。
9:12壊れた吊橋(フジノトコから小谷川ルート)下流で写真撮影
その後何ヶ所か写真撮影 (W)場所、時刻特定できるがここでは省略
10:42小黒構(こぐろこ)谷出合から少し上流で最後の写真撮影
(W)場所は別紙溯行図に示す。(写真を見ると水は濁っていない)
下流の淵を泳ぎ下り小黒構谷出合に至る。
10:50?小黒構谷出合 (フジノトコより写真撮影をしながら0.8km/2h?)
(W)小黒構谷出合の下の大釜滝は左岸側半島状岩場から飛び込んで右岸へ泳ぎ渡ったと思われる。右岸の懸垂下降支点に手ごろな立木にはロープを回収した痕跡は無かった。
その下の洗濯機のような右回り8m斜瀑の右岸に川崎が打ったと思える、真新しいリングボルト(短いシュリンゲ付き)が有った(同型の新品リングボルトおよび短いシュリンゲは遺品に残されており、川崎が打ったものと断定してよいと思われる)。
11:00?~11:15?リングボルトを打つ。
11:20?リングボルトを支点に懸垂下降。ロープ(遺体発見時には流失)はザックの雨蓋にはさんだと思われる。5m滝の落口上流の渡渉を試みた。ここの地形は白川又川本流の全水量が幅約3mの溝状に集まっている、手前(右岸)は流れが速く入ったら一瞬で流される。対岸はやや流れが緩いが上流側5mの壁に2mの壁が続いている。水深は1.5mで、対岸落口にかけては少し浅い。
11:30?渡渉中増水した水流に引き込まれ5m滝より落ちたと思われる。落口の岩は激流に磨かれてホールドは皆無である。この5m滝は水深のある釜ではなく、水流がテーブル状の岩に当たって泡立って飛散っている。落ちたら最後、無事で済む確率はゼロである。
4. 遭難状況の考察
彼がどのように渡渉したかは本人にしか分らない。状況から考えられる渡渉方法は3つである。(1)上流より流れに乗って対岸に泳ぎ渡る。(2)ギリギリまで流れに近寄り。対岸よりの流れが緩いところ目掛けて足から跳ぶ。(3)下の5m滝落口のチョックストン上に跳び移る。今回の捜索時上阪は(1)を、馬場、國頭、和田は(2)を選択した。私は今回の捜索を含めてここに来るのは4回目で、その昔(1995年8月)来た時は(3)を選択した。ただし侵食により地形が変わり(3)の方法は今回ありえない選択肢になっていた。彼が渡渉した時は水位が20~30cm以上高かったと想像される。
渡っても対岸の2mの壁はつるつるでショルダーでないと登れない。唯一落口ギリギリのチョックストン横に階段状の弱点がある。しかし、彼の技量から考えるとこの程度の増水であれば渡渉は無謀な判断ではなかったと思われる。
今回の彼の装備からして(1)を選択した可能性が高いと思われる。しかし泳ぎで対岸に到っても、落口チョックストン手前の浅くなった所で、タイミングよく立ち上がれなければ落口への強い流れに引き込まれる。流れは速くかつ強くて許容されるタイミングは一瞬の勝負であろう。もたついたり、よろけたりしたら命取りになる。これは跳んだ場合でも同様である。遺体の状況(後述)から考えると彼は流芯に引き込まれて滝から落下し、滝壺を塞ぐ岩に足から激突したと考えるのが妥当であろう。その後10mほど下流へ流されたが、ハーネスに着けていたハンマーが川底の岩に引っ掛かり、発見時の状況に至ったと考えられる。
黙祷
川崎家族コメント
検死において確認された受傷部位
1. 左大腿骨骨折(膝のすぐ上)
2.右膝関節脱臼骨折
3. 骨盤骨折
4.左肩関節脱臼
5.その他の所見
顔の目の周りに内出血様の変色有り。どこかに打ち付けたのか空気に触れて変色したのかは不明。
鼻からの出血有り。
lただし、ヘルメットに目立った傷は確認できなかった。
頭部、頚部には大きな損傷無し。
水は全く飲んでいなかった。
腹筋は全力で踏ん張った状態のまま死亡していた(落下時のものか、死後硬直によるものかは不明)
・上記検死結果より、死亡原因は「外傷性ショック」と診断された。
・水中で発見されたにもかかわらず水を全く飲んでいなかったことと、大きな外傷が多発していること、外傷の周囲の腫れがほとんどなかったこと、腹筋の硬直の4点から考えて、呼吸・心臓が止まったのは事故後かなり早い段階であったと思われる。
参考資料
1)奈良県吉野郡上北山村白川(フジノトコとは10km以上離れている)の降水量
気象庁HP 過去の天気による
8/10 32mm
8/11 0.5mm
8/12 35mm
8/13 18mm フジノトコでは夕方強い雨が降ってかなり増水した。
8/14 0.5mm 事故発生日、11時時点で0.5mmを記録している。事故発生時に現場上流フジノトコでは強い雨が降っていた事実とは矛盾しない。
8/15 0.0mm
8/16 0.0mm
8/17 0.0mm 捜索発見した日
8/18 0.0mm 遺体収容日
2)2010.8.17捜索時作成した溯行図
3)現場周辺の写真
遭難推定現場
右岸から左岸へ渡渉中に増水した水流に引き込まれたと考えられる。
遺体発見現場
落下した滝の上より遺体発見地点を望む
ピンバック:2010年 白川又川 遭難事故報告 – 大阪わらじの会