今、私は、大阪わらじの会50周年記念に向けて、『溯行』を読み進む作業をしています。
四、五十年前に書かれた文章ですが、『溯行』には、色々と考えさせられる先人たちの言葉が残されています。ここでは、目に留まった先人たちの言葉を色々と引用されてもらおうかと思ってます。
まず、『溯行3号』(昭和43年発行)から、「会の歩み」という益田正章さんの巻頭文です。
現在日本において、純粋な意味での“パイオニアワーク”が果たして可能かどうかは疑問です。しかし、別の方面から光を当てることによって、その渓谷を新たな姿で甦らせることができるのではないかと、先人たちの足跡を辿りながら考えています。
会の歩み 益田正章
当会が設立され五年を経た今日、「溯行」第三号発行に当たって今一度、会の歩みを振り返り将来への礎とするのも一つの方法であろうと思う。
当、大阪わらじの会は昭和三十八年に創立し、数名の会員で第一歩を踏み出した。当時の目的は、台高山脈の秀ヶ岳を中心とする渓谷と奥美濃の渓谷を主に地域調査を兼ねて入谷することであった。が、奥美濃の方は担当者が高齢でありまた入谷するには数日をようするため参加者も少なくなり、二・三の者が細々とその命脈を続けていた状態であった。昭和四十年に十数名の同行者の入会があり、この時期を境として積極的に地域調査の形をとるに至った。それ医が毎年数名の入会者があり、現在二十数名に至っている。
一方、地域調査の面からとりあげてみると、最初の三年は秀ヶ岳を中心として、四年目は宮川の支流、父ヶ谷、大和谷、吉野川の支流中奥川全域、五年目は宮川の全支流、吉野川の支流北股川全域、六年目の予定は櫛田川全域で一応台高山脈の渓谷を中心とした地域調査を完了する予定である。
これで当会設立した当初の目的を全うすることになるが、もし、この目的が達成すると、どこの山岳会でも果しえなかった優れた業績として、日本山岳史上に一つのエポックを劃すことになるといっても過言ではないだろう。人々はあんなじじむさい山というだろうが、なるほど表面上は穂高や剱のような華やかさは決してないが、あの瀑布の数、あの布石の立派さ、あの流水の美しさはどこの地域にその比すべきものがあるだろうか。黒部といえども落差百米を越える滝がここほど無数にあるだろうか。山のよさは決してその高さにあるのではなくて、深さ、内容にあることを知らなければならない。
それではわれわれは、今後どのような方針をもって入谷すべきであろうか。
それは現在も続けているパイオニア・ワークと地域調査を車の両輪として続けてゆけばよいではなかろうか。厳密にいって、この狭い日本ではわれわれのパイオニア・ワークを完全に満足させてくれる渓谷は皆無に等しいが、当会としてのパイオニア・ワークと地域調査という意味からすると、まだ洋々たる未来が横たわっていて、決して日本の国土の狭きを嘆ずるに及ばないことである。むしろこういった方法は終わったのではなくて、まだまだこれからが、どんどん採用されていくべきものである。
われわれは、その一翼を担っていると自負して、今後こういった踏まれることの少ない地域の開拓に精通してゆこうではないか。
高校時代に山岳部活動してました。大峰山系に比較的よく登ってました。菊の窟に興味あります。ツアーなどの情報教えてください。
コメント有難うございます。こちらの最後のほうを読んでいただけませんか?